子どもを読書好きにする苦楽園読書くらぶ

その他のエッセー

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落書き

犬が自分の縄張りを印すために、オシッコをあたりかまわずかけるマーキングという行動をとることがよく知られています。私も自宅の前に駐車してある自動車のタイヤにオシッコをかけられていることがたびたびあり腹立たしく思うことがあります。

犬は迷惑という考えは全く持っていませんから、飼い主が車から犬を離すなどごく当たり前のことをしなくてはいけません。これは飼い主の責任です。

同じようなことを看板や建物にオシッコではなくペンで落書きを書いている情けない動物がいます。その動物とはもちろん犬ではなくて分別をもっているであろう人間です。

この近辺に広範囲でわけのわからないサインのような字が書かれています。もしみつかって捕まれば軽犯罪法で罰せられます。一種の自己表現のつもりなのでしょうが、他に迷惑をかけていることを忘れています。

私が落書き犯をみつけたら、「字の書いていない元の状態にもどせ」と要求します。パソコン教室に書かれた落書きを消すのにすごい時間がかかりました。

元にもどすのは大変なことです。落書き犯に同じ経験をさせれば、いかに自分が人に迷惑をかけているかが分かるはずです。

塾でも落書きや机に傷をつける情けない人がいるようです。しかも先生の目を盗んで、勉強することも忘れてせっせとやっている様です。また国語の教室に多いのは何故でしょうか? 女の先生だからと甘くみていませんか。

私は人によって態度を変える人間が大嫌いです。ここ数日の間に南側の新しく張り替えた壁紙に落書きを発見しました。「バーカ」と書いてあります。

馬鹿なのはお前だ!!

親に高い月謝を払ってもらってこの有様では、私は親に申し訳がありません。ムダ金払ってもらっているので、もし落書きをしているところをみつけたら即刻退塾してもらいます。もちろん壁紙は元の状態に自力でもどしてもらいます。

人間だれでもストレスがたまったりすると、何かを傷つけたり、破壊したくなる時がありますが、それでは犬と同じです。スポーツなど身体で発散するとか、それを回避する種々の方法があります。

私や他の先生に話してみて下さい。話をすることで、気が楽になり問題の半分以上は解決してしまうことが多いです。

塾に限らず、学校や公共の設備を汚すのはやめましょう。汚せば汚す程、自分の心はすさんでいきます。落書きのない物理的にも精神的にも気持ちのよい環境で学習に励み、実力をつけてもらいたいと思っています。
2004.10.19
                  

豊かさとは

私達は便利さの中で、日々暮らしています。そして、その便利さゆえに発生する危険性と常に同居しています。

例えば飛行機は1時間ほどで、又新幹線では3時間弱で大阪から東京まで移動できます。昔なら1日歩き詰めに歩いて10日はかかりましたからその速さのすごさが想像できます。飛行機の場合単純計算で100倍の速さになります。

ところがその移動スピードが大きくなればなる程、生命に対する危険性は逆に大きくなります。飛行機事故ではほぼ全員が即死、新幹線では事故が起これば多数の死者が出ることが容易に想像できます。

JR福知山線の事故もスピードを最優先した結果大事故につながったと考えられます。日々の忙しさの中でその危険性は事故が起こってみないと分からないというもどかしさがあります。

しかし福知山線に毎日乗車していて「あぶない」と感じた人が多かったと聞きます。そのばあい遠回りでも「時間より安全」と考えて人もいたはずです。

現に飛行機には絶対乗らないという慎重派の人達もいるわけで、それを選択しているのは結局自分自身だと言うことになります。すなわち自分の命は自分で守るしかないのです。

スローライフや半農半Xと言った考え方はスピード優先・効率優先から脱却しようと言う1つのアンチテーゼであり、とりもなおさず「人間としての豊かさ」への回帰に根ざしています。

発展途上国の子ども達はその生活が貧しくて非効率的でもその瞳がキラキラと光り輝いているのは何故なのか。

JR福知山線の事故は「人間の豊かさ」とは何か?今一度じっくり時間をかけて考えてみる必要を提起しているのではないかと思います。
2005.6

がまん

保護者あてに書いたプリントの内容です。

いつも塾運営に対するご理解とご協力ありがとうございます。

つい先ごろ、京都で6年生の女の子が大学生の塾講師に殺害されました。

その後警察官の方が塾に訪れ、防犯や小学生の人数について調べていかれました。また、この事件後テレビで『いかに、子どもを犯人から守るか』という集会の模様が映し出されていました。

私はこの事件に対する反応を奇異に感じました。『子どもたちを犯人から守る』ことに異論はありませんが、この発想は『バイキンから子どもを守る』ことと同じ対症療法にすぎません。

バイキンはなくすことは、不可能です。一番清潔でバイキンが少ないと思われる病院でさえ、院内感染により多くの治療中の病人がなくなっています。それよりも、どんどん子ども達の行動範囲を縮めることになりかねません。 

それよりも、私がショックを受けたのは、この大学生の精神構造です。自分の保身のため人を抹殺すのに、すぐばれてしまう場所で犯行におよんでいるということは、その後に起こるであろう事態を予想できなかったのであろうか。という大きな疑問が残ります。

たいていの人はそのあとに起こるであろう事態を考えるからこそ、行動にうつせないのではないか。それが抑止力になっている。だからがまんする。要するに、この『がまん』がこの大学生にはなかったとしか言いようがありません。

塾生に聞くと、学校でも気に入らないからと言って平気で人をなぐるらしい。私の子どもの頃も暴力はあったが、他人にも説明できるちゃんとした理由があった。

もともと日本人は歴史的にみて農耕民族である。種を蒔き、苗を育て、実をつけ収穫するまで、半年以上のがまんを強いられる。また、がまんしないと生きていけないし、共同作業が多いため『和』が尊ばれた。

この『がまんする』というDNAは我々日本人に綿々と受け継がれてきたはずである。

しかし昨今の教育では、この『がまん』は捨てられてきている。また、経済的に恵まれるようになってきた事によって、欲しいものはがまんせずとも手に入る。

暑いといえば、クーラーが入る。食べ物の好き嫌いは認められる。と言ったことも『がまんできない症候群』を蔓延させているのではないかと思う。

1960年代初頭から高度経済成長の波にのり工業国家としての道をあゆみ始めるが、日本人の最も原点である農業がなおざりにされた。

そして、日本の穀物自給率は1999年現在、24パーセントで、これは世界178ヶ国中130番目で、いわゆる先進国のなかで最低の位置にある。

今こそ農業であると思う。

ちょっと話が横道にそれたが、いまこそ『がまん』という教育が見直されるべきであると思う。

これは、学校に任されるべきことではなく、家庭・地域が中心となって取り組むべきことである。少年院での矯正教育がどんなものか知らないが、農業に取り組ます事で少しは『がまん』を学習するのではないかと思う。

2006.1

無農薬もち米づくりに参加しませんか

「いただきます。」と食事の前に、日本人は言います。最近では、言わないで食べる日本人が多くなってきていますが、戦後混乱期の物のない時代に生まれた私には、身にしみ込んでしまった言葉です。

「いただきます。」とは「生ある」植物や動物を殺して食することに対する感謝の言葉と言い換えても良いと思います。父をなくし、法事でお寺に頻繁にいくようになってから、ある日ご住職からこのことを教えていただきました。

小さい時に、詳しいことを知らなくても大きくなってから、言葉の意味が分かることはたくさんあります。しかも、当時農業は機械化されず、牛や馬の力そして人の力で重労働をしいられていました。

親からは「一粒もむだにするな。むだにすると、お百姓さんに申し訳ない」と食事のたびに言われ、ご飯をこぼしたら茶碗にもどし食べさせられました。だから、私を含めた戦後生まれの人達は出されたたべものは何一つ残さず食べることも身についています

「もったいない」という言葉も日本では死語になりつつありますが、世界ではこの言葉が環境保護のキャンペーンの言葉として使われています。

また日本人が古くから食してきた野菜と魚中心の食事も日本人より、外国でヘルシーな食事として見直されています。

いい言葉、いい習慣がGHQの占領政策の影響で、なくなっていきました。

アメリカ人は日本人に「権利」という言葉を教えたが「義務」という言葉を教えるのを忘れた。という逸話は、身近にその例があるだけに説得力があります。モンスターペアレンツ、給食費3兆円滞納等をあげればいいでしょう。

ある教育雑誌に生命科学者である中村桂子さんが「今の子どもは昔と違う、はウソ」という寄稿文に「生きる力」について、次の様に記述しています。

(1つには、心から喜んだり、楽しんでいるときに自然とあふれてくるすてきな笑顔。二つ目は豊かな表現力です。自分は何をしたいのか、何を考えているのかということを、言葉にしたり、身体で表したり、いろいろな形で豊かに表現できること。そして三つ目は、関係をつくる力。それは子ども同士でも、周りの大人や全然知らない人とでもいい。自分が何かを知りたい、新しいことに挑戦したいと思ったら、そのために人と上手にかかわっていく力です。この三つの能力は、人間が生きていくために一番基本的なこと。(一部略)現代社会は便利さを追求するあまり、人間を主体とせず、機械が主体のようになっている。技術や情報が氾濫し、その中で人間が振り回されています。そうした状況で子どもを育てるときに、大人たちが知識を優先し、競争を大事にしてしまう。それでは、生きるうえで基本となる三つの能力はなかなか身につきません。)

この三つの能力は広義にはコミュニケーション能力と置き換えてもよいと思います。そしてこの筆者が農業高校の生徒のことをひきあいにだし、農業にたずさわることでこの三つの力が磨かれている。とその体験談で述べています。(詳しくはプレジデントファミリー6月号をお読み下さい)

もう十数年前になりますが、伊丹市主催の家庭水田に塾として取り組んだ経験があります。田植え、案山子たて、稲刈りそしてその米でもちをつくなど一年間楽しめました。(残念ながら翌年には打ち切られました。)

数年前、埼玉からわざわざ私に会いにきてくれた元塾生の子ども(もう30才近くになります。)もこの家庭水田に参加した一人でしたが、勉強のことより、この家庭水田のことやスキーツアーのことが良かったと言っていました。

日常生活から隔絶した経験をしたことがよほど印象深かったのでしょう。そういう意味で共同体験することのよさを改めて知らされました。

さて、昨年のリレーフォーライフの記事に、「子ども達に農業体験をさせたい。」と書きました。家庭水田での経験、お遍路で経験した水田の打ち水効果(気温を下げる効果)のこと、食料事情の悪化に対する準備等伝えたいことは色々ありますが、一番のねらいは次の通りです。

「何でもすぐに手に入る。すぐにできる。」ことばかりがもてはやされ、時間をかけて育てるということがないがしろにされています。

本来子育ても「早くできない。手が抜けない。思いどおりにならない、時間のかかるもの。」ということが、忘れ去られています。

親子での農作業を通じて物づくりには時間がかかること、手間がかかることを知ってもらうこと。共同体験をすることで親子のコミュニケーションをさらに円滑にしてもらう。

無農薬の野菜づくりを通じて、地域の活性化をめざす清流工房(代表前田勝美さん)と共同で、能勢に100坪の水田を借り受け、無農薬のもち米を栽培することにしました。

昨日モミを蒔き、田植えの準備をしています。おおまかな日程は次の通りです。詳しい内容は後日プリントでお知らせします。

   5月19日(日)  田植え
   9月        収穫
   12月        餅つき
   5月~9月の間に、案山子たて、草引き等の作業が入ります。

2007年4月  

進路選択

9月の中旬、西宮南高(以下南高とします)の学校説明会に行ってきました。校長先生は近隣の鳴尾高、西宮東高のような設備のよい高校に負けていることを大変気にしておられました。

昨年4月に南高に通っている生徒の出身中学校に赴任のあいさつまわりされた時に南高としての特色は何かと多くの質問があったようです。

そこで、南高が昨年から取り組んでいるのがコミュニケーション能力を高めるための教育。クーラーがないのを逆手に取って植物を建物にはわせ、緑のカーテンで暑さを緩和しているが、これを発展させ地域の環境問題に広げて活動する自然との共存共栄の教育。この2つを高校の特色として打ち出しています。

先回、ディベートに取り上げられたテーマは「南高に冷房設備は必要か」でした。そして、ディベートの結果「必要ない」との結論を得たそうです。現代のひ弱な高校生を見慣れている私には、何とも「心強い」結果を出したものだと拍手を送りたい気持ちになりました。

ちなみに、最近読んだ本にエアコンの普及が「肥満や糖尿病」の人をつくっていると指摘していました。

それはエアコンを常時使用することで、長時間暑さや寒さにさらされることがほとんどなくなり、そのため必死になって体温を調節するエネルギーは必要なくなり、現代人は昔の人と比べて基礎代謝量が大幅に減っているのです。その結果、エネルギーとして消費されなかった糖はすべて脂肪にかえられるという内容でした。

塾では体温調節能力が低下するので、エアコンの使用をできるだけ最小限に抑えていますが「肥満や糖尿病」まで関係しているとは知りませんでした。しかし、考え方は間違っていなかったことがはっきり確認できました。

話しをもとにもどします、来年度から西宮の公立高校の選抜方式が変わりますが、高校を選ぶのに塾やテスト業者が出す偏差値だけで判断するのはできるだけさけて欲しいものです。

大手の塾ではこれを機にとばかりに高校にランクをつけ、いい高校(ここでのいい高校は大学進学率のいい高校)にいきましょうとキャンペーンをはっています。これでは大学を選ぶのに偏差値で決めるのと同じで、個性のない金太郎飴的な人を社会に送り出すことつながるだけです。

有名高校-有名大学のコースをたどった人が、実社会で『人財』として役に立っていないことが定説になりつつあります。

もっと「自分らしく」「個性的」に自分を磨くことが出来る高校・大学を選ぶ時期に来ていると思います。

政府の考えている「30万人留学生計画」は現在7万人いる留学生をさらに増やし30万人とし、そのうちの15万人を国内に就職させるというものですが、当然ながらその分日本人学生の就職先は減ってしまうことになります。

国際化にはつながるとは思いますが、各国の優秀な人達を手っ取り早く確保しようという魂胆が見えます。この動きは、まさに日本の大学生に対する『人財』としての期待度が低下している現われと見ることができます。

ところで、大学の実力は様々な角度で測られますが、その1つとして就職率があります。さらにその中で国内有力410社への就職率を見ると旧帝大といわれる国立大学は下位に低迷しています。(エコノミスト2008.9.23号)

日本では、大学を選ぶのにブランド志向が根強いのですが、新卒の2人に1人が非正規社員である事実をみると、もはやブランド志向の考え方では本人が社会の荒波を乗り越えていけない時代に突入していると考えられます。

この現実を直視して、これからの針路(長期的なビジョンを持った進路選択)を見つけていくべきだと思います。

蛇足になりますが、南高の校長先生は定員割れを大変気にしておられました。今回の公立高校進学希望調査では1.11倍と健闘しています。

第1回の調査結果で、今後変動することもあると思いますが、時代の流れにあったテーマ「コミュニケーション」「環境」をかかげて高校の改革に取り組む姿勢が評価されたのではないかと私は内心思っています。

西宮市の各高校が偏差値教育ではなく、それぞれの高校が特色を持った学校運営をすることを望みたい。昨年、全国の多くの高校で履修すべき科目を学習せず受験に必要な科目だけを学習していたということが明るみになりました。

その高校の校長先生たちが「生徒のため」と言い訳をしていましたが、高校の学習目的を受験勉強だと勘違いしているように思います。

特に日本人として学ぶべき日本史を履修科目からはずしていた高校もありましたが、非常に残念なことです。そして、大学の行き先を気にするよりも、どんな『人財』を輩出したかを高校のステータス・シンボルと考えて、個性ある学生を育成していってほしいと思います。またそれが高校という教育機関の本来の役割ではないかと私は思っています。
2008年9月

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