子どもを読書好きにする苦楽園読書くらぶ

今の子ども達

今の子ども達

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現在の子どもたちをとりまく社会・教育環境は悪化の一途をたどっています。その中から、様々な問題点を浮き彫りにして、解決またはより良い方向に変えていかなくてはなりません。私の少ない知識と経験から、その問題提起をしていき、皆さんとともに考えていきたいと思います。この文章を書いたのは2006年6月です。データが少し古いところもありますが、子どもたちをとりまく環境は悪くなっていることはあっても良くなっていないことの方が多いのではないかと思います。今後とも、適宜更新していきたいと考えています。

悪化の一途をたどる子どもたちをとりまく環境

今の子どもは経験不足

今の子どもは、外で遊ぶ機会が少なく、知識はそれなりにもっているが、それを知恵として生かせない状況がある。

例えば台風シーズンである。警報が出され、子どもは外に出ない様に言われる。昔の様に窓や戸がガタガタいう音も聞かず、風の音も聞こえない部屋にいるので、強い雨や風を実感することがない。

結局、台風というものを体験せずテレビで台風を疑似体験することになる。この子どもたちに宮澤賢冶の「雨ニモマケズ」の詩はわかるのだろうか。

カッターで手の指を切るといった経験も、あぶないから使わせないといったまわりの配慮から、ほとんど持たない。その痛みの経験がないので人を傷つけたとき、どのように痛いかを推測できない。

長崎県佐世保で起こった小学生による殺傷事件も、こういった経験不足が、相手の身になって考えられない理由となっていないだろうか。

また、小さな虫に対して極端な反応を示す。そばに虫が近寄ってきただけで大声を出して逃げまわる。また気になって集中力が落ちる、トイレに虫がいるとトイレに入れない。一種の虫アレルギーである。

自然との関わりが希薄なため、あまりこういった虫に出会っていないためか、非常にいやがり、すぐ殺したがる。いやな虫は殺すという発想はいやな人間を殺すという発想につながっている様に思われる。

昔は、おじいちゃん、おばあちゃんがどんな虫でも殺生することはよくないと、よく聞かされたものである。仏教の教えが日常生活に根付いていた。無視すれば何でもないことなのに無視できないのである

今の子どものあやうい身体

花粉症、ゼンソクをはじめとするアレルギーを持った子どもが多い。昔の衛生状態が悪かった時には発生しなかった病気である。昔の子どもは、身体の中に回虫・ぎょう虫など虫をもっていたので、それがアレルギーを起こさない役割をはたしていた。

また暑さ、寒さに対して自分の方でコントロールするという発想がない。衣服をぬいだり、着たりして調節すればよいのだが「めんどくさい」と自分で調節しようとしない。

どの家庭、施設でもエアコンで室内の温度をコントロールしているからであろう。毎年、夏場になると夜間クーラーをかけっぱなしにして風邪をひいている子どもが数人はでてくる。

そして、クーラーのきいている室内では元気だが、昼間の暑い所ではぐったりとして気力がない。免疫力が落ちるので体調が極端に落ちるいわゆるクーラー病である。

本来、汗をかいて自分の体温を下げているのだが、このクーラー病にかかると汗をかかない体質になって、運動しても、自分で体温が下げられない。蓄熱がすすみ、ついには突然倒れてしまうことになる。

汗をかいて寝るというのが本来自然で、自分の免疫力を落とさない最良の方法である。

ケータイについて

小中学生の間に急速にケータイが普及しています。日本PTA全国協議会が2004年11月から12月に実施した調査では、小学5年生で12%、中学生になると36%が携帯電話を持っていました。

さらにほとんどの携帯電話は、通信機能だけでなく、「モバイル・インターネット」というネットの端末機としての機能をもっている。

ここでは、本来通話機能だけをもっているものを携帯電話。インターネット・メール・ゲーム・写真機能がついているものをケータイと呼んでいる。日本では、ほとんどが後者である。

自由に書き込みをさせるモバイル・インターネットの「掲示板」で、児童や生徒個人の学校名、実名を出して誹謗、中傷の書き込みが急増している。しかも匿名のため誰が書いたのかわからず、止めることができない。

2004年6月に起きた長崎県佐世保の女子小学生による同級生殺害事件は、インターネットのホームページに書き込んだ「いい子ぶっている」などの悪口が原因でした。

アメリカでは子どものインターネット利用は親の見ているところでやるというルールが広く行き渡っています。ネットの先進国であるアメリカは、インターネットの危険性をよく知っているのです。

世界的にみても、インターネット機能のついた携帯電話を小さな子どもに持たせている国は日本以外にありません。

また携帯電話は好きな時に、好きなところで、自由に使うことができます。そして匿名で好き勝手なことが言えます。そのため携帯を使う子ども意識が、自己中心的になってしまう。いわゆる「家の中主義」(塾長のコラムに詳しく書いています)と言った、公私の区別がつけられない子どもがどんどん増えていくことになります。
 
また、電磁波で加熱するIT調理器が人間の身体に不調をきたすことが問題になっているが、ケータイの発生する電磁波はケータイを直接耳に接触させているので、ダイレクトに脳に影響を与える。ひんぱんに使用されると、人間の脳幹がやられてしまうと言われている。(詳しくは「携帯電話で腫瘍ができる」をお読みください。)

これを小さい頃から使えばどうなるか。まだ、ケータイの歴史が新しい中で、日本人はその壮大な実験に取り組んでいることになる。私はできたら小・中学生には持たせない方が良いと思っている。

安全のためと、子どもにケータイを持たせる親が多いが、事件に巻き込まれている子どもたちがいずれもケータイを持っていた事実からすると、あまり説得力を持たないように思う。

それよりも、インターネットなどに無防備にアクセスすることにより、事件に巻き込まれる可能性がもっと高いのではないか。ケータイにまつわる事件は増加の一途でとどまることがない。

ゲーム脳について

ほとんどの子どもが日常的にゲームをやっている。塾にやって来る子どもを見るとゲームを長時間やった子どもはすぐ分かる。

目がトロンとして気力がない。あいさつしても返事は弱々しい。授業に入ってもボーッとして、集中できない。等々、私が実際に見聞きした経験からも、ゲームをやりすぎると脳の働きが悪くなることは間違いのないことである。

脳の働きが極端に落ちると、緊張している時に出るβ波がほとんど出なくなる痴呆の人と同じ脳波になるとはおそろしいことである。この状態をゲーム脳というが、子どもの思考力低下、意欲低下のみならず、おこりっぽい、すぐキレルなど人としての感情を制御する機能が低下する。

いわゆる、脳の前頭前野(脳の前の部分)の働きが低下することが分かっている。いったんゲーム脳になると、正常の脳にもどるのにものすごい時間がかかる。

何故なら、ゲームはタバコと同様一種の依存症でなかなか、スパッと止められないからである。今問題になっている子どもに関する多くの事件はゲーム脳と関係しているのではないかと思う。

塾では、「馬鹿になりたくなければゲームをやめなさい。」と子どもと親に資料を渡して説得している。

携帯メールにひそむ危険性

私の塾でも中学生が休み時間になると外に出てメールのチェックをひんぱんにしています。

携帯メールをひんぱんに使用することにより、言語能力・コミュニケーション能力の低下をきたすと警告している正高信男氏(京都大学霊長類研究所教授。「ケータイをもったサル」「考えないヒト」等の著作がある。)の「携帯メールは子どもの言語能力を貧困にする」と題した談話を引用させてもらうと、次のようである。

携帯電話の普及率を見ると、最も高いのは北欧で、その次が日本です。ただ、北欧と日本の「携帯電話とのつき合い方」をみると、大きな違いがあります。

日本の特徴は、電子メールを送受信するツールとして多用していることです。他の国では、純粋に緊急時の連絡手段の「電話」として使っています。子どもが携帯を四六時中持ち歩き、メールをひんぱんに送受信している現象は日本だけのものと言っていい。

この携帯メールの出現によって、日本人のコミュニケーションのあり方が変質してきています。最近の大学生の中には、教師に会っても何も言わず、メールでしか連絡してこない学生がいます。

どんな重要な用件でも直接、教師と会って話そうとしない。すべてメールでやりとりをしようとするのです。電話ですらしてきません。「会話」ができなくなっているのです。

さらに携帯メールは文字数も制限されるため、情報量も少なくなります。一般的に携帯メールを多用する人は語彙が少ないようです。

もともと語彙が少ないから携帯メールのコミュニケーションでも満足できるのか、それとも携帯メールを多用するから語彙が少なくなるのか、その関係はまだ明らかになっていませんが、携帯メールを利用しながら育つ今の子どもたちの日本語能力は、貧困化するでしょうね。

携帯メールによって、人間の思考も変わっていくと思います。思考が言語的ではなく、イメージ的、ビジュアル的になってじっくりとものごとを考えることができなくなるからです。

そのために、コミュニケーションがうまく取れない人間が増えていくと思います。「キレやすい」人間が増えたと言われますが、携帯メールの多用と無関係ではないように思います。

このように、日常的に使われている携帯メールであるが、益々生身のコミュニケーションがなくなり、人と人との関係が益々無機質で味わいのないものになっていくことが懸念される。

おケイコ事

子どもたちは少なくて1~2つのおケイコ事をしている。多い子になると4~5つも習い事をしている。

共通していえることは「教えてもらう」という受身の姿勢を助長していることであり、自分で考えることが少ない。これを小さい頃から何年も続ければ教えてもらうことになれ、自発性が失われていくのは、自然の成り行きであろう。

また、自分の足で教えてもらう所へ移動するのでなく、車で送迎してもらう。このいたれりつくせりがさらに子どもを主体的でなくす原因の一つであろう。

読書くらぶの生徒は、多くの場合この送迎をしてもらっている。こう子どもに関する多くの事件が多くては致し方ないのかもしれない。いずれにしても、子どもが安心して外を歩ける社会にしていかないと解決できない問題である。

私の塾では、今までもそうであったが、『教えることから学ぶことへ』より強くシフトしつつある。具体的なことは省くが、この自発性を育てる工夫をしている。

子どもの学力も5、6年前に比べると中学の教科書も随分と易しくなり、分量も高校に移行した分軽減されているにもかかわらず、とくに数学、理科といった論理的に考えることがより苦手になってきている。以前と同じように教えてもその理解力は低下してきている。

また「国際学力比較調査」PISA(PISAについては「学力世界一フィンランドの秘密」をお読みください。)の結果からも言っても、客観的に子どもたちの学力が落ちていることは周知の事実である。小学生も同様の傾向である。

直接行動とことば

中学校で、気にいらないからといって平気で人をなぐる子どもが多いと、塾生からよく聞く。

私が子どもの頃も暴力はあったが、他人にも説明できるちゃんとした理由があった。たとえ目の前に殺したいほどにくい相手がいても殺すという直接行動には結びつくことなく当然ながら抑制する力が働く。

それが、ここ数年、その抑制力が働かない、つまり「がまん」ができなくなっている。戦後の日本では、住宅や食料事情が悪く「がまん」を強いられた。

経済的にも恵まれている人は少なく、まさに「貧乏こそが名教育者であった」。阪神淡路大震災の時も「不便さ」が「がまん」を教えてくれた。そして、人間らしい会話があちこちで聞かれた。

しかし、最近の教育ではこの「がまん」は捨てられてきている。便利さのおかげで、「がまん」することが激減している。経済的に恵まれる様になってきた事により、欲しいものはがまんせずとも簡単に手に入る。

暑いと言えばクーラーが入る。食べ物の好き嫌いは認められる。と言ったことが「がまんできない症候群」を蔓延させている。本来ことばで解決すべきこと、解決できることが、相互のコミュニケーションの欠如により、できなくなっている。

そして、「殺す」と言った直接行動が「言葉が力を失った社会」を反映している。そういった中で益々、子どもたちは「生きる力」を喪失していっている。

子どもにとって、何故ことばを獲得することが大切なのかを石川九楊氏がその著「縦にかけ!」で明快に説明している。最近の子どもの殺人事件を理解する一助になるだろう。

人間は動物の一種、ヒトとして生まれてきて、そこから少しずつ言葉を知り、社会を生きていくスタイルを身につけて、文化的な存在である人間になるわけです。
子どもは、決して無垢な汚れなき存在ではなくて、むしろ人間の原点に残る獣のような粗暴粗野な意識を本源的にもっている。それを文明化あるいは文化化し、浄化、止揚するのは、言葉にほかなりません。
狼の育てた子供カマラとアマラの例があるように、8才まで狼が育てたものは、10年育てても20年育てても、サル並にはなっても人間生活にはもどれないのです。
「文明」と「文化」に「文」という文字がでてきますが、この「文」すなわち言葉の働きによって原初的に獣(ヒト)の状態から人間として変わっていくのです。

そして、読書ばなれ

日本人の読書ばなれはとどまることを知りません。昔は電車に乗ると多くの人が熱心に本を読んでいる光景がよく見られました。

しかし、ここ数年の間本の替わりにケータイのメールを読んだり、書いたりしている人が急増しています。唯一年輩のおじさん位が本を読んでいるというさみしい状況です。

平成13年12月に「子どもの読書活動の推進に関する法律」が公布そして施行されています。読書くらぶの体験アンケートをみるとほとんどのお母さんがこの法律を知らず、関心を持っていません。

また読書が子どもの言語能力を高め、それがすべての科目の学力を高めることにつながると考えるお母さんも少なく、目先の学力を上げることにばかりに心をうばわられているように思います。

この法律を受けて、各小学校・中学校では朝10分程度の読書タイムを設けています。本は読めるが「本を読まない」こどもはこの読書タイムでなんとかできるが、「本が読めない」子どもは深刻です。

本を選ぶことは選ぶが、本を広げていない。本の読み方は、本来教えてもらっていない。本を読むには、子どもが色んな経験を積んで、コツをつかむことが不可欠なのであるが、それを体得していない子どもは結局「本が読めない」まま放置される。(詳しくは、「読書をするとはどういうことか」ーその方法論的考察―をお読み下さい。)

「今読書が日本を救う」の著者である鈴木健二氏によると、子どもに関する非行の右肩上がりのグラフと読書ばなれのグラフとが一致していると述べている。昨今、新聞紙上をにぎわしている子どもの事件を考えると納得できる話である。

また、日本で学ぶ外国の留学生の読書量と比べると日本の大学生のあまりにも少ない読書量に、このままでは日本はとんでもない国になり下がってしまうと憂える教育関係者も少なくありません。ひいては、日本語がその存続の危機にさらされているのです。

この状況を打破するために

健全なる肉体に健全なる精神が宿る

「健全なる身体に健全なる精神がやどる」とはクーベルタンの有名な言葉であるが、今の子どもたちは健全な身体をもつことが非常にむつかしくなってきている。

1960年代初頭から、日本は高度経済成長の波に乗り工業国家としての道を歩んできたが、日本人の最も原点である農業がなおざりにされてきた。

日本の穀物自給率は1999年現在24%で、これは世界178ヶ国中130番目で、先進国の中で最低の位置にある。現在はもっと自給率は下がっているだろう。

そんな状況のなかで、食糧は輸入に頼らざるをえず、本当の安全な食糧はなかなか得にくいであろう。アメリカのBSE牛肉輸入問題はほんの氷山の一角かも知れない。

個人的な意見であるが、まず日本本来の農耕社会を見直し食物の自給自足をまず確立して、安全な食べ物を国あげて作るべきであると思う。

国の品格を示すバロメーター

先の健全な精神を獲得するために欠かせないのは祖先の残してくれた言葉のプール「読書」ではないかと思う。

そして、人は言葉で考え、言葉で相手にその考えを伝えて、また言葉で記憶していきます。コミュニケーションの円滑化をはかるのも言葉であり、人格も言葉によって磨かれる。

藤原正彦氏が著した

「国家の品格 (新潮新書)」

に次の逸話が紹介されている。

かつて日本が開国した当時、イギリスにせよ、アメリカにせよ、本気で植民地化しようと思えばできたはずです。しかしイギリス人たちは江戸の町に来て、町人があちこちで本を立ち読みしている姿をまの当たりにして「とてもこの国は植民地には出来ない」と諦めたそうである。

この話から読みとれることは、身体は支配できてもその精神は支配できない。すなわち国家としての品格(文化度)が高かったからだと言えるのではないか。

『読書イコール文化度である』といっても言い過ぎでないのではないかと思う。アジアの多くの国が植民地になったという事実からも、その信憑性が読みとれる。

日本のとるべき教育とは

また、これからの日本の取るべき教育の方向性を先の藤原正彦氏は同著で次の様に述べている。

例えば2002年から始まった「決定版ゆとり教育」によって現在、全国の九割以上の小学校で英語が教えられています。私に言わせれば小学校から英語を教えることは、日本を滅ぼす最も確実な方法です。公立小学校で英語など教え始めたら、日本から国際人がいなくなります。

英語というのは話すための手段にすぎません。国際的に通用する人間になるには、まず国語を徹底的に固めなければダメです。
 
表現する手段よりも表現する内容を整える方がずっと重要なのです。英語はたどたどしくても、なまってもよい。

内容がすべてなのです。そして内容を豊富にするには、きちんと国語を勉強すること、とりわけ本を読むことが不可欠なのです。

読書が日本を救う

PISAの学力調査で、2004年『学力世界一となったフィンランド』も子ども大人を問わず『読書大国』であった事実からも、この藤原氏の言葉には説得力がある。鈴木健二氏の言葉をかりて言えば、『今読書が日本を救う』である。
益々、『読書くらぶ』の重要性を実感している。

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