子どもを読書好きにする苦楽園読書くらぶ

読み・語り・聞かせること

読み・語り・聞かせること   

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筒井 康隆(つつい やすたか 作家)

日本の昔話、民話、イソップの寓話、グリムやアンデルセンの童話、たいていの親なら知っていて、いつでも子供に語って聞かせることの出来る話はたくさんある。そして通常の親であれば、子供に話をねだられたことがある筈だ。

そして親からそのような話を聞かされて育った子供が、たとえば「人を殺してなぜ悪い」というような子供に育つとはとても思えない。

悪いことをして、それがなぜ悪いのかわからないような反省のない子供に育つとも思えないのである。そのような子供はみな、親や祖父母から話を聞かせてもらう機会がなかったのではないだろうか。

私の祖母は中風で寝たきりだった。だからいつでもその布団にもぐりこんでいき、お話をねだることができたのだった。その記憶があるため、自分に息子ができ、毎朝毎晩幼い彼が布団にもぐりこんできて「パパお話して」とねだれば、眠くても面倒でもやはりしてやらねばならないと思い、知る限りの話をしてやったものだ。

自分の幼児体験を顧みれば、幼いころ聞かされた話が自分の精神にいかに深い影響を及ぼしているかを常に思わずにはいられない。

多くの童話を知らないか忘れてしまった親のためには絵本がある。まだ字が読めないからといってこれを買ってやらないのは間違いであり、子供はそれをくり返し親に読んでもらうことでその話を記憶し、心に刻みつけ、そして字を憶えていくのである。

わが息子は何度も呼んでもらってほとんどそらんじている絵本を出してきて、母親に、まずここへ座れと命じたものだ。そして読めと命じる。何度となく呼んでもらった話をまた聞きたがるのは、そこに母親の肉声があるからだ。その抑揚の中から子供は敏感に母親の感情を引き出していく。

同じ話を何度も繰り返して聞くということは大切なことである。それは子供の無意識のそこにへばりついて離れなくなる。

寝物語で語り手たる親がそらんじている筈の話を間違えたり、以前と違うことを言ったり、一部分をすっ飛ばしてしまったときなどには子供から注意が飛ぶ。「違うでしょ。その時亀さんは兎さんにこう言ったんでしょ」子供が親の間違いを許さず親を誘導することによって、親には子供がその話をどう受け止めているかを知ることができる。

童話も寓話も、必ずしも勧善懲悪の話ばかりではない。だから多くの話を聞いているうちにバランス感覚が養われてくる。正義の行き過ぎを批判的に語る話もあれば、熊と道連れになった旅人の話のように、人を信じすぎてもよくないと教えている話だってある。

すぐ極端に走りたがる人間にとってバランス感覚は大切である。聖書にもあるように、魔女狩りのように誰かをいっせいに攻撃し悪く言うのはあきらかによくないことであり、これは特に日本人に多いのだが、みなと同調しないものが悪く言われるからだ。自分の中に確固とした指針がないからであろう。

過激な童話、寓話もある。何もしていないか、ちょっと間違いをしでかしただけなのに死ぬほどの目にあわされたり、殺されたりするのだが、こういう話は強く無意識に残る。

最近は父親の力が弱く、エディプス・コンプレックスが形成されにくいから、ますますこういう話が必要になってくる。いわゆる残酷童話というものも、不条理感覚を養う上で役に立つのである。社会には不条理なことがいっぱいあり、そのたびにキレていたのでは間にあわないのだ。

話に意味が隠されている場合は親が教えることも大切である。アリとキリギリスの話にしても、夏と冬の、四季の移り変わりの話ではなく、若いときと老年になってからの話であることを教えてやるべきだろう。

せっかく親が読み聞かせてやっていて子供は懸命に聞いているのだから、そんなときこそ教訓にうってつけなのだ。

幼児期の体験は無意識的な行動にまで影響を与える。「あいつをいじめよう」と誘われても、一緒にいじめないと自分がいじめられるなどと心配する前に「いやだ」という答えが口をついて出てしまう。何もいじわる爺さんがどんなひどい目にあったかを思い出さなくてもである。

祖父母が家庭にいなくなり、両親ともに忙しいインテリ家庭が多くなると、こどもに話を聞かせてやらなくなる。そういう家庭で育った子供が成人してから、悪事という自覚なしに悪いことをするのではないか。

一般に偉いといわれている人、地位のある人、たとえば組織の上層部の人などが、出されたその金を受け取っていいかどうかの判断が咄嗟にできなかったり、よくないとわかっていても、これを受け取らないと組織内で仲間はずれにされるのではないかと思ったり、出世できなくなるのではないかと考えたり、皆がやっているからと自分を納得させたり本来は上位自我がたちどころに「ノー」を発すべき局面でそれが出てこない。

幼児期に聞かされた話は大人になってからの無意識的な行動にも影響するのである。成人してからの倫理道徳がほとんど役に立たないことは、無軌道な若者に何を説いても無駄であることによって証明されている。

よほどひどい目にあわないと反省や悔悟もない。たいていは反論したり自己弁護したり、言い訳できないときは「野暮なこと言うな」と笑いとばすのである。

だが、無垢な子供の心には聞かされた話が浸み込んで、それは反省や悔恨の材料としていつまでも残っている。これは自分の体験だが、たとえ友達に誘われてちょっと悪いことをしてしまったとしても、そのための後悔というのは他の子供より激しく、それからは二度と悪いことをしなくなったりするものである。

テレビではアニメで昔話をやっているが、あれは絵や朗読の芸術性の高さを目指しているものであり、何よりも親の肉声がない。親が子供に読み聞かせる肉声とは、一種のスキンシップである。祖父母がいず、両親が多忙で相手をしてやれないときは兄姉でもよい。

古い話によって、今は失われた古い時代の暖かく賢明な人生の知恵を、肉親の肉声でもって幼い心に植えつけてやることがわれわれの責務だと思うのだ。

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